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音楽教育における 和楽器の指導

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音楽教育における和楽器の指導/音楽の喜び

・・・小・中・高等学校生活で

「うちの子には、音楽はさせない。」

 私の父は、邦楽囃子の笛方の演奏家であった。と言うと、六才の六月六日を芸事はじめとして……といった、邦楽に囲まれた、特別な環境に育ったのではないかと、思う人があるかもしれない。やっぱり、そんな人でないと「和楽器」なんて、無理だと、思ってしまうかもしれない。
 ところが、まるで違うのである。邦楽家の子として生まれたものの、父は、修業の厳しさ、恵まれない経済生活、当時、邦楽家が、芸術家としての、社会的地位を十分に得ていなかったこと、そして衰退の一途をたどる邦楽界の将来、などを考え、子どもたちには、同じ道を歩ませようとしなかったのである。
 その頃は、趣味で笛を習う人もなく、家で弟子を取って教えることもなかったので、私は父の演奏を聞くことは、ほとんどなかった。邦楽どころか、趣味として音楽を習うことは、道楽ごとと決めつけ、当時、ピアノのおけいこに通う友達もいたのに、私には、一晩泣いて頼んでも、習わせてもらえなかった。
 このように、私は、邦楽はおろか、音楽に関する事は、何一つ仕込まれずに育ったのだ。

 

おもちゃの楽器を遊び道具として

 そんな、音楽シャットアウトの環境の中で、母のはからいもあり、おもちゃの楽器は、ねだれば、買ってもらえた。おもちゃのピアノ、シロフォン、ブリキの鍵盤のついたアコーディオン、大正琴、リコーダー……クリスマスのたびに、私がねだって買ってもらったものである。そんな時、父が、おもちゃでも音律だけは良いものと、買い物には、必ずついて来て、店をあちこち回り、選んでくれたことが懐しく思い出される。
 私は、手に入れたおもちゃで、耳にある歌を片っぱしからひいた。学校で習った歌、流行歌(これをやると、よく叱られた)、盆踊りの「炭抗節」も、みんな楽譜無しの探り弾きである。聞くと、父も、もともとは、郷里の愛知県犬山市の祭りの囃子がきっかけで、この道に入った人である。竹を切り、笛を作って遊ぶという、少年時代を送ったそうだ。
 要するに、私も、父も子どもの頃は、自分に与えられた環境の中でごく自然に、音楽を生活化していた、普通の子どもだったのである。

 

みんなと一緒にする楽しさ……鼓笛隊で

 私が六年生の夏休み、五年生の子たちを対象に、鼓笛隊が結成され、練習が行われていた。その練習につきまとい、ねばりにねばって、ついに仲間に加えてもらうことができた。だから、私は、三宝小学校鼓笛隊の「O期生」なのである。私が、初めて手にした、本物の楽器、鍵盤ハーモニカやアコーディオン。それは、まぶしく、夢のようなものであった。
 ここで私は、みんなと一緒にすることの楽しさや、それを、他の人に聴いてもらうことの喜びを味わうことができた。

 

さまざまな楽器との出会い・音楽を通じての友情……ブラスバンドで

 当時、中学校のブラスバンドには、男子しか入っていなかった。ここでも「女子部員第一号」であった。顧問の先生は、入部を許可したものの、はじめの内は、男子部員にソッポを向かれ、スカートだからと、パレードにも加えてもらえなかった。男女平等が、強く叫ばれる今日ならば、大問題である。でも、そんなことさえ懐しいエピソードとして話せる程楽しい仲間であった。この時のメンバーは、OBバンドとして「プールサイドコンサート」を行うなど、二十歳を過ぎる頃まで、その活動を続けた。
 楽器不足もあって、欠席部員の補欠として、いろいろなパートをまわった。その時、いろいろな楽器に触れたことや、修理までしたことは、教師となった今、音楽室で即役立つ、とても貴重な経験であったと思う。

 

声楽の指導を受けて……基礎の大切さ

 高等学校では、かなり専門的に声楽を教わることができた。発声法や呼吸法をはじめ、コーラスの楽しさを体験することができた。
 また、何よりの収穫は、これまで、耳からの音楽を取り入れる方が先で、五線譜を読み取ることが苦手であった私が、コールユーブンゲンによる訓練によって、それが、少しずつできるようになってきたことである。
 私は、今でも楽譜を読むのが苦手で、これが私の音楽の上での、最大のコンプレックスとなっている。もちろん読譜力(初見で演奏する力)と、演奏の素晴らしさとは、決して比例するものではないと思っている。しかし、自分の音楽をひろげていくためにも、こういった「基礎的な力」は、子どものうちに、できるならば、それのみを取り上げる訓練でなく、楽しく演奏する中で、自然に身につけさせていきたいものである。
 私の音感は、このときの訓練で、身についていき、高められていったと思われる。また、自分なりに、一人で歌を練習する方法や力も、身につけることができたようだ。最近、長唄の唄を歌うようになって、この時に得た、呼吸法や、音のささえ方、ストレートな音のもっていき方などが、大変役立っている。
 私は、長い間の教師生活で、元気いっぱいの子どもたちを前に、つい大声(怒鳴り声)を出し、常に声がかすれていた。しかし、音楽を教え、子どもとともに歌うようになってからは、学生時代の声(声楽の声)が徐々に戻ってきた。それとともに、長唄の声も、不思議にも、出はじめてきたのである。声楽と長唄とは微妙にノドの使い方がちがう。「邦楽的発声」を「ノドを痛める発声」と思っている人がいるようだが、私には、そうは思えない。今、そのどちらをも、毎日のように使い分けているからである。
 「地声」「胴声」「邦楽的発声」(邦楽の分野によって微妙な違いがある)、こういった言葉の定義も、よく明らかにされていない。「発声法」については、まだまだ、科学的、専門的な研究の余地が残されているようである。これは、新指導要領における、「楽曲による発声法の工夫」をしていく上での、重要な課題でもあると考える。
 音楽は一人でしても楽しい。なかまと一緒にやれば、もっと楽しい。それを全身で感じとることのできる毎日であった。
 私の中学・高校生活から、音楽を取り去ると、何も残らないと言っても言い過ぎではないと思っている。それは、みんなと歌ったり、合奏したりする中で、自分自身の「わがまま」や「ひとりよがり」な性格に、知らず知らず気付き、音楽の歓びの中で、少しづつ心が磨かれていったと、実感しているからである。

 

ピアノの壁は厚かった……音楽への挫折

 高等学校卒業後、教職に就くまでの間、私が音楽を楽しめたのは、学校の礼拝堂で、賛美歌を歌うときだけになってしまった。
 教員免許を取るためのピアノのレッスンには、音楽を感じることが、できなかった。音譜の順番どおりに、キーをたたきさえすれば、〇印をつけてもらい、次に進む。まるで、タイプライターを打っているような、味気ないものとしか思えなかった。
 「性に合わなかった。」と言ってしまえば、それまでだが、原因は、いろいろ考えられる。まずは、練習不足だろう。一時間五〇円出せば、ピアノを貸してもらえたが、昼間、会社勤めをしていた私には、練習時間がなかなかとれなかった。また耳ばかり肥えていたのが、災いして、一向に鳴らない自分のピアノに、愛想がつきてしまった。
 二十歳になり、ローンで資金が借りられるようになったので、ピアノを買った。休日に、家での練習時間が確保されると、その成果は目に見えた。免許に必要なピアノの単位は、間もなく取ることができた。
 この時、さすがの頑固親父もあやまった。「先生になるのに、ピアノがいるとは、思はなかった。苦労をかけてしまった。」と。今さら言っても、後の祭である。私も、この後、何度「小さい時から、やっていたらなあ。」という思いにかられたことだろう。
 そして、私は、ピアノで味わった挫折感から、「自分の音楽はダメなのだ。」と思うようになってしまった。
 私と同じような子どもが教室にいるのではないだろうか。何か一つのことが苦手なために、自分の音楽性を発揮できなくなってしまっている。そんな子はいないだろうか。
 子どもたちには、将来、自分の音楽を選択していくためにも、多くのことを経験させていきたいし、挑戦もさせていきたい。だからといって、あれもこれも、全部できるようにする必要はないのである。その子の、生涯音楽に通じる、持ち前のものをひき出し、大きな、音楽する心で包み、磨いていってやることが、大切なのではないかと考える。

 

鑑賞する側にまわってみて……受け身だけでは不満足

 私は、実に多くの楽器に出会ったが、結局、少しはこなせるといったものは、一つとして無かった。それで、演奏はプロにまかせ、それを鑑賞することで、自分の音楽への気持を満足させようとした。 そういう形ででも、私は音楽好きのまままでいたかったのである。名曲と言われるものであっても、少し長いものであれば、初めて聞いたときには、どこがどう良かったのか、正直なところよくわからない。何度も聞いて、メロディーが耳につきはじめて、ようやく興味がわいてくる。後に長唄をするようになったときも、同じようなことがあった。
初めての曲に取りかかるときに、私は「この曲をきっかけに、嫌気がさして、やめてしまうのではないか。」と、何度も思ったものである。しかし、繰り返し練習し、メロディーを覚えるにしたがって、徐々にその曲に、愛着がわいてくるのである。
 月に一枚程度のレコードを買い、それをあきるほど聞いた。そのため、曲数は少いが、指揮者や演奏者によって、微妙に違う表現を、じっくり味わうことができたように思われる。そして、そのころ聞いた曲は、今も、心に深く残っている。
 ところが、このように努力して聞き続けることが、だんだんしんどくなってきた。長唄の場合は辛抱できたのに、なぜなのだろう。
 それは、音楽を頭で分析し、理解しようとしたためではないかと思われる。音楽を受動的な立場で楽しもうとするときは、特に、無理や辛抱は禁物である。あまり理屈っぽく考えず、もっと素直に、感じるがままに聞くことの方が幸せなようである。もちろん、自らが演奏する場合であっても、あまり理屈っぽくては、ただの独りよがりであることは、言うまでもない。
 これに比べると、能動的な音楽の喜びは、「しんどさ」をも克服することができると、言えるようである。後になって、私は、履歴書の「趣味」の欄に「音楽」と書かずに「楽器いじり」と書いたものである。それは、「下手の横好き」であっても、
「doingの音楽」が好きだということを言いたかったからである。

 

「邦楽」「和楽器」との出会い……きっかけは学校で

 邦楽に興味を持った理由として、「門前の小僧、習わぬ経を読み」の例えのように、家庭環境も否定はできない。確かに、家には「しの笛」も「三味線」もあったし、少しは触ってもみた。しかし、私にとって、それらは、知っている曲をドレミでふいたり、弾いたりすることのできない楽器でしかなかった。やはり、直接のきっかけは、小、中学校で、わずか数曲の邦楽に出会ったことである。

 

長唄「元禄花見踊り」……鼓笛隊で

 楽譜に「長唄より」と、あるのを見て、母が「お父ちゃん、鼓笛隊で『元禄花見踊り』を、するんだって!」と、感激の声を上げた。父も、「ほう、どれどれ」楽譜をながめていた。が、「こんな物『花見踊り』のサワリの内の、十分の一どころか、ほんのひと節にも足りない。これで、よくも『元禄花見踊り』などと題をつけて、おまけに『長唄より』なんて、厚かましいにも程がある。」と憤慨することしきりであった。
 私は、この時初めて、父が「長唄」という音楽をしていることを知ったのである。そして、「今まで知っている音楽と、何かちょっと違うな。」と思いながらも、わけのわからない嬉しい気持ちが、こみあげてきたことを覚えている。

 

長唄「越後獅子」……中学校の音楽の時間に、レコードで

 教科書には、写真がのせてあって、舞台の真ん中で、サラシを振って踊っている姿と、後ろで演奏する人たちが写っていた。私は幼い頃、日本舞踊の会には、何度か連れて行ってもらったことがある。「越後獅子」の衣裳にも、見覚えがあったので、親しみ深く聞くことができた。私の耳には、笛の音ばかり追いかけていた。「何たら愚痴だえ、ぼたんは持たねど、越後の獅子は………」歌の意味は、良くわからなかったが、その一節の楽譜がのせてあった。リコーダーでふいてみた。家に帰って、「学校で『越後獅子』を習ったよ。」と言って、ふいてみせると、母は口三味線を言いながら、嬉しそうに聞いてくれた。私は、いつか、しの笛でふいてみたいものだと思った。
 前にも書いたように、洋楽のレコードは何枚も持っている。けれども、私が、ステレオを手に入れてから初めて買ったレコードは、学校で聞かせてもらったのと、同じジャケットに入った「越後獅子」であった。又、教科書の写真は、その後、父の職業を説明する時に、とても役に立った。

 

三味線との出会い……ブラスバンドで

 「日本民謡お国めぐり」をした時のことである。私のフルートと母の三味線を合せたいと思い、やってみたが、調子がなかなか合わせられなかった。それで、三味線の糸を巻いて、音を高くしていくと、一番細い三の糸は、切れてしまって弾けなくなる。
 民謡など、高い調子のものは、「短棹(たんざお)」という、短い三味線を使うと、糸が切れなくてすむそうだ。しの笛の場合も、少しずつ長さの違う笛を何本も、持って歩かねば、いろいろな高さの調子に合わせることができない。
なんと、原始的で、不便なんだろう。
 しかし、よくよく考えてみると、なるほど、フルートは一本あれば、どんな調子の曲も、ふける。けれども、移調すると指づかいが変わり、私などは、しばらく練習しないと、すぐにはふけない。それに比べると、一曲覚えると、調子が変っても、同じ指づかいで演奏できるという、三味線や、しの笛は、とても便利と言えるのではないか。

 

三味線を習おう……独学の限界を感じて

 ブラスバンドで、フルートをふいていた私は、先に、しの笛に興味を持った。父には教えてもらえなかったが、父が笛で何をふいているのかを知りたいと思った。長唄の中で、能管や、しの笛が登場するのは、ごく一部の決まった箇所だけである。そこで、どんな情景や、感情が表現されているのかそのためには、まず、長唄の全体を知らねば、ならなかった。
 母に、三味線の譜の見方を教えてもらい、唯一つ、耳にある曲「越後獅子」を弾いてみようとした。やっぱり、これは初歩の曲ではなく、難しすぎた。が、諦めたくなかった。かといって、もう少し易しい曲は、聞いたこともなく、つまらなそうに思えた。
 これまでの楽器いじりで身にしみていた独学の限界を、改めて感じていた。私は、せめて「越後獅子」を弾けるようになるまではと、目標を定めて、長唄を習う決心をした。
 教師になって二年目、二十四才のときである。このときの、父のセリフが、私には忘れられない一言となった。
 「職業も決ったことだし、趣味でやるのに何も文句はない。二十四にもなれば、どうせ、モノにはならないだろうから、間違っても、この道に入ろうなんていう心配もなくなった。自分の甲斐性でやるのなら、好きにしなさい。」
 これから頑張ろうとしている者に向って、何と失礼ではないか。ひょっとして、私が、こんなに長い間、長唄を続けられたのは、この一言があったからかもしれない。
 学校での音楽に、邦楽が登場していなかったら、こんな環境に育った私でさえも、邦楽の世界を、のぞいてみる気になったかどうかも、わからない。まして、多くの一や家庭においては、今や、和楽器は、かなり疎い存在であろう。だからこそ、公教育で、邦楽や和楽器を取り上げていかなければならないのでは、ないだろうか。そうしなければ、悔しいけれども、うちの父の予測どうり、邦楽は、滅びてしまうにちがいない。

 

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