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音楽教育における和楽器の指導/子どもとともに楽しみながら
私が、学校に和楽器を持ち込んだのは、まだ、邦楽と出会ったばかりの頃であった。クラブ活動という、自由な場で、単なる「楽器いじり」の延長として、真実、子どもと一緒に楽しみながら始めたのである。始めたものの、失敗や苦労の連続であった。しかし、子どもたちにせがまれ、はっぱをかけられながら、ずいぶん多くのことを学ぶことができたように思う。 ここでは「ズブの素人でも、ここまでできた。」ことを知ってもらい、音楽を愛する多くの先生方に、勇気をもって「和楽器」や「邦楽」に取り組んでいただきたいと願っている。
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長唄の三味線を習い始めて間もない頃、一・二曲どうにか弾けるようになると楽しくてたまらない。ついに、私のクラスの子どもたちは、「お楽しみ会」などの余興で、先生の下手な三味線を無理やり聴かされる羽目になった。それでも、子どもたちは、めずらしさも手伝って、「もっと弾いて」「教えて」と言ってくれるのである。子どもとは、なんとありがたく、可愛いものなのだろうか。
もっと、もっと聞かせたいし、触らせてもやりたい。しかし、私の三味線は、まだ、思うような音色で、鳴ってくれないし、子どもたちが扱うには、難しすぎるように思えた。
ある日私は、デパートの和楽器売り場で、何気なしに、お筝の糸を、端から端まで、はじいてみた。なんと、それだけで、お筝が歌っているように思えた。触っているうちに、「さくらさくら」と弾けた。続いて「やよいのそらは」「ラシドシラーシラファ」。ピアノみたいに「ソ」を抜かさなくても、自然に弾ける。次に往復はじいてみた。まるで名人になったような気分だ。もう一度やってみた。これが日本の音階なんだ。これなら子どもでも、できそうだ。
そんな感激に浸っているとき、「お手を触れないで下さい。」の張り紙が目に入り、あたりを見回しながら、コソコソと、その場を去ったが、興奮はしばらく続いていた。
それ以来、持ち前の「楽器いじり」の虫が騒いで、お筝を買いたくてたまらなくなった。しかし、ようやく面白くなってきた三味線を捨ててしまう気にもなれず、お筝にまで手を広げることは、ためらわれた。
2、子どもたちに「さくら」だけでも
…四年生を担任して(昭和五十三年度)
筝を手に入れる機会は、意外に早く訪れた。四年生を担任し、久しぶりに自分のクラスの音楽ができるようになったのである。教科書を開くと「さくら」や、宮城道雄さんの写真が出ている。私は決めた。子どもたちに、筝を触らせてやろう。日本の子どもなんだもの。私があの時味わった感激と興奮を体験させ、せめて「さくら」まででもいいから、筝を弾かせてやろうと。
古道具屋で、値切りに値切って、当時現金で頂いていた一万三千円也の研修費に、こずかいを、うんと足して、筝を買い、直接学校へ運んだ。
教則本を見たり、少し経験のある友達に教えてもらったりして、「平調子」だけは、合せられるようになった。
こうして、私のクラスの子どもたちは、全員が「さくら」を体験したのである。そして、もっと弾きたい子どもたちは、放課後、列をつくり、その後、何日も「弾かせて」と、ねだったものである。
「さくら」が、一段落した後も、何人かの子どもたちは、「また、お筝を出して」「他の曲も教えて。」と言う。けれども、数曲で、私の持ネタも、おしまい。ついに、お筝の先生の門を叩くことになった。しかし、学級担任という仕事の忙しさの中で、長唄と筝曲を、両立させていくことは、とても難しいことであった。
そして、転勤。再び、高学年の担任となり、音楽の授業から離れたのを後に、稽古の意欲は、長唄の方に向き、お筝は、なかなか上達しなかった。
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転勤後、新しい学校で、どうやら落ち着いた頃、音楽を担任しない私にできることは、クラブ活動だけであった。他の先生方も、それぞれユニークな活動を行なっておられたので、お筝のクラブをつくるのに、何の抵抗もなかった。その上に備品として、お筝も一面購入してもらうこともできた。私のものと合わせて、二面のお筝での出発だった。
昭和五十七年四月のある朝、同僚の先生が、テレビ放送で、「筝の無料貸出し」のニュースがあったことを、知らせてくれた。親切にも、問い合せ先まで、メモしておいてくださったので、早速、申し込んだ。まもなく、福山邦楽組合から五面のお筝が届いたときはまだ夢を見ているような信じられない気持がしてならなかった。その後、当時の教頭先生のおばあちゃんが使っておられた、古いお筝を寄付していただき、合計九面の筝が使えるようになった。(参考資料新聞記事)
それでも、まだ、筝の数より子どもたちの数の方が多い。交代で弾くと、待ち時間の方が長い。月二回、あるかないかのクラブ活動の時間を、子どもたちに楽しんで過ごさせるためには、リコーダーも木琴も、鉄琴、アコーディオン、鍵盤ハーモニカ…なども動員して、和洋合奏にせざるを得なかった。ついには、家にあった、ボロ三味線も、持ち込んでしまった。であるからクラブの名まえも、「お琴クラブ」ではなくて「音楽クラブ」としか、名付けようがなかったのである。
邦楽教育に取り組んでおられる先生方の中には、和洋合奏は、すでに邦楽ではないと考え、純粋に「日本の音」「伝統音楽」で指導されている人もいる。(参考資料『日本音楽による教育』-山田隆氏)
それが理想かもしれない。けれども、私自身の指導力も含めて、現段階では、子どもたちに、邦楽や和楽器に、興味や関心を持たせていく糸口として、今日、より身近となっている楽器を混じえて、和洋合奏をすることは、大変有効であると思う。今後、私が、持ち込みたいと思っている楽器に、鼓や、大鼓、太鼓などがある。これまでは、高価で、維持管理が難しかった。しかし、最近では、合成皮革でありながら、かなり良い音質が出、温度や湿度に左右されず、安価で扱いやすいものが、開発されているからである。
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4、楽譜は全てオリジナル
…子どもの要求に答えながら、四苦八苦
和洋合奏となれば、大変なのが楽譜づくりである。そんな楽譜は、どこへ行っても売っていない。クラブ活動の前日は、よく徹夜になったものだ。
リコーダーや三味線の指づかいに、無理をしないように。筝柱も大幅に動かさないよう。などと考えると曲を決めるだけでも、頭に火花が散るようだった。それでなくても、オタマジャクシとは、あまり仲良しでなかった私は、とうとう楽譜が間に合わず、子どもたちを退屈させ、あやまったことも、たびたびあった。
また、月に三回の練習では、子どもたちに、高度な演奏技術を求めることは無理である。そのため、私はその日一日で、合奏が楽しめるような、易しい編曲を心がけてきた。
ところが、苦労して、仕上げた楽譜を前に、子どもたちは、言ってくれるじゃありませんか。「先生、このごろ、お琴なんか、つまらなくなってきたよ。だって、ピアノを一本の指だけで弾いているのと、同じみたいだもの。」と。そこで、左手の奏法やトレモロなどを取り入れ、少し難しくしてやると、「こんなの、できないよう。」などと、ブツクサ言いながらも、興味を取り戻すのである。
三味線も同様で、難しいからと言って、「シャンシャン」だの「テンテン」だのと、リズム伴奏ばかりさせていると、「先生、私たちにも、メロディーを弾かせてよ。」と言い出す。私は、そのたびに、「ハイハイ、かしこまりました。」と、また苦労して、譜面の書き直しをさせられるのである。 子どもたちの興味や、やる気を持続させるには、難しすぎても、易しすぎてもダメなのである。
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どんな曲でも、少し形が整ってくれば、聴いてもらいたくなるものである。わが音楽クラブも、ことある毎に、発表の機会をつくっていった。
前日まで、何度もやり直して練習したこと、徹夜での楽譜づくり、練習中に暴れて、三味線をこわし、大声で叱ったときのこと…。音楽会当日の、舞台に立った子どもたちの輝きは、そんな苦労を、みんな吹き飛ばしてしまう。
大きな舞台に立つと、いつものワンパクぶりは、どこへやら、真剣な表情で、指揮棒を見つめる姿は、本当に健気で、胸に熱いものを感じずにはいられない。緊張した子どもたちに「がんばろうね。」、口だけを動かして言い、精一杯の笑顔をつくる。このとき、子どもたちの目元が、一瞬ゆるみ、わずかな笑みが返ってれば、しめたもの。必ず、ステキな演奏になる。拍手に送られ、目をまたたかせながら、舞台のそでに戻ってくるときの、晴れやかな顔。満足そうな顔。
子どもたちに、発表の場を設定してやることは、音楽をしていく上で、なくてはならないものである。
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音楽会に向けて、子どもたちは実に積極的に練習した。朝、昼休み、放課後と、楽しそうに集まってきた。特に、連合音楽会出演にあたって、音楽クラブ員に加えて、毎年四年生の子どもたち、全員を出場させてきたことが、数々の成果を生み出すこととなった。
クラブの六年生は、リーダーとなって、下学年のめんどうをよく見、自主的に練習をしていくことができた。
そして、四年生の子どもたちは、クラブ員の演奏する和楽器に興味を持った。リコーダーや鍵盤ハーモニカで出演した子も、次の年は、お筝でと、より多くのどもたちが、クラブに希望してくるようになったのである。
また当時担任していた一年生の子どもたちには、「四年生になったら音楽クラブに入れてね。」と言う子もおり、中には、どこの学校にでも、お筝があるものと、思い込んでいる子もいるほどであった。
さらに、四年生の担任をはじめ、全校的な、温かい応援体制から、先生方やPTAの方々の、和楽器に対する理解も、より深まっていったように思われる。
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[参考資料]PTAだより「湊」第76号
(児童の感想文)
今日は楽しみの連合音楽会に出ました。……座ると、ライトがとてもまぶしかったです。それに、まわりのお琴の音は全然聞こえずに、私の音ばかりで「ドキドキ」しました……お琴の爪と、指の間から汗が出てきて、取れそうで、とても気になりました。二・三かしょ間違えたけれど、うまくいきました。とても、緊張しました。終るとホッとした。
待ちに待った連合音楽会日がやってきました。私はワクワクしていました。その思いは市民会館に着くと消えてしまいました。代りに、みんなで練習してきたことを思い出して、練習の成果を十分に発揮しようと思っていました。
みんなも思っていたに違いありません。……演奏が始まると、ホールの中、全体が、しゃべり声もなくて、紙の音も出さないほど、とても静かになりました。何だか嬉しくなってきました。……私は、私なりに。みんなは、自分なりに演奏できたと思います。本当に良かった音楽会でした。
幕が降りている間に、私は、手のひらに、何回も「人」という字を書いていました。……私は、手にすごく汗をバチがぬれるほどでした。他の学校の演奏を聞いていても、なつかしい曲や、めずらしい楽器があったりして、とても楽しかったです。……もう一つ嬉しかったのは、湊小学校のことが新聞に乗ったことです。この新聞は、ずっと残しておきたいと思っています。
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(保護者の感想文)
幕が上がった……出だしの不安気な音。どうぞ、うまくできますようにと、心の中で祈る。……年令から考えても、やんちゃざかりの男の子が……おしゃべりが大好きな女の子も……。琴を弾いている自分の娘を見て、ちゃんと弾いているいるかしら……自分も、昔十年程、琴を習ってきました。床の間の飾りとなっていたお琴を、娘が弾いてくれようとは、……「さくら」の曲に入ると、なぜか涙が出てきて、そっと目頭を押さえました。「みんなよくやった。上手だったわよ!」と、舞台の下から、声をかけてやりたくなりました。
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7、再び転勤
……残された子どもは?お筝は?新しい学校では?
「先生、転勤したら、お琴は全部持っていってしまうの?。私たち、もう、お琴は弾けなくなるの?」「お琴持っていかないで。」
子どもたちに言われ、貸し琴の契約も、一年間延長した。私自身にと、寄付してもらったものも、一年だけでも様子を見ようと、残していくことにした。
私は、「また、一から始めたら良い。なんとかなるだろう。」と思っていた。でも、一方では、「もし誰も使わないようなら……。」と、内心、あてにしていたのである。
しかし、期待は見事に打ち破られた。子どもたちが、新しい音楽の先生を動かしてしまった。その先生は、「指導要領も変ったことですし、子どもたちに教えてもらいながら、私も勉強してみます。」と言ってくださったのである。
子どもたちが、そこまでお筝に愛着を持っていてくれていたとは。自分のまいた種が、知らないうちに芽を出していたのを、見つけたような嬉しさだった。と同時に、この先生のチャレンジ精神に、感謝せずにはいられなかった。
つくづく、お筝を置いてきてよかったと思った。こんな素晴らしい先生や子どもたちがいても、かんじんの、お筝がなければ、私は本当に何も残すことができなかったのだから。
私は、ここで自叙伝を書くことを目的としているのではない。私自身を一人のサンプル児童として見ていくとき、子どもたちの音楽を育てていくための、大切な事柄が、たくさん浮かび上がってくる。
そしてそれが、現在の私の音楽教育に対する、考え方の基となっているからである。また、これによって、音楽のよき理解者であれば、だれにでも、「邦楽」や「和楽器」に取り組んでいけることを、わかってもらえるのではないかと思う。
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